Monday, May 02, 2011

パーベル・ウドビチェンコさんが、チェルノヴイリからやってきました。

いまも、子供たちのために活動しています。

長年チェルノヴイリ被爆者を支援している医学博士 振津かつみさんも来ました。

 被曝に反対するだけでなく、原子力発電に反対して、これを廃炉にしなければいけないと話していました。

会場一杯の人が熱心に討論して、どうしたら全ての原発を無くする事が出来るか。

代替エネルギーがなくて、本当に大丈夫か。

原発が危険だとしても、実際には10人に一人しか署名をしない。

そもそも日本の電力会社は、どういう仕掛けになっているのか。

私たちは、玄海原発でモックス燃料を燃やすとしたとき、50万人の署名を集めて九州電力に中止するよう申し込みました。

ところが九電は、

「ああ、そうですか。私たちは実行します。見解の相違です。原発は安全です」とにべもなく取り合いませんでした。

50万の反対署名のなかで、現地の佐賀県では、6万人でした。

何かが足りない。これでは玄海原発はつぶせない。

これが、それからの私たちの再出発でした。

だから100万人の署名ではなく、100万人の反対運動をする人の群れを創り出そう、これが今の呼びかけです。

長い戦いです。潰すまで止めません。

いずれ玄海原発は崩壊します。それが何十年先なのか、ひょっとして、すぐ近くまで迫っているのか。

いずれにしても、原発が無ければ地球温暖化は進むとか、日本の電力の3分の1は原発に頼っているとか、そんな宣伝が深く広く広がっています。

これを潰すとなると大変な努力が必要です。

もっと、次から次へと多くの人の努力が必要です。

6月には広瀬隆さんを呼んで八幡市市民館で講演会を開きます。

今日の何倍もの人と共に、もっと力を集めます。

51日 北九州市立商工貿易会館

 主催 チェルノブイリ25周年福岡実行委員会

会場の映像です。

Sunday, April 24, 2011

JR小倉駅前で、玄海原発を廃炉にしようと、呼びかける署名運動


福岡九電本店まえで、玄海原発廃炉を目指して、座り込み抗議をする人達。


Monday, December 11, 2006













































































今年いっぱい戦いぬいたから、もう少しだけは、お休みなさいというのだろうか。
長い冬を耐え抜いて、やがて来る春に備えて、力を蓄えろと呼びかけるのか。
只ならぬ世の姿に、イノシシを狩る鈴の音が響いている。
とうとう冬が来た。



































                    




















紅葉を探して紫川を上ったが、それはなくくっきりした冬があった。
花とソラマメ

Wednesday, August 16, 2006















夏の海

響灘にコンテナ・ターミナルが出来た。それを始め見た。
恐ろしく広いところに何もない。
釜山、大連、上海に比べられるほどの大流通網を作ると、声だけは大きかった。 が肝心の外国船が来ない。荷物が無い。















こりゃ借金も、よほど大きかろう。















目の前には風力発電の風車が回っていた。
退任間際の市長は、また大変な物を作ったんだな。



「釣り馬鹿日記」じゃない。
バカバカしくて釣でも見よう。



「何が釣れますか」
「鯖ばかりよ」
「小さくてどうやって食うかな」
「糠炊きか」

響灘は面白い。

Friday, July 28, 2006







































継体大王陵のピンク石と「磐井の乱」

大阪府高槻市所在の今城塚古墳(継体大王の墓とされる)、奈良県橿原市所在の植山古墳(推古女帝と竹田皇子とされる)からピンクの石棺破片が出てきた。
それまではこの石の出たところは、大阪と奈良の境にある二上山だといわれていた。折口信夫の「死者の書」の舞台となる山である。
このデータに宇土市教育委員会の高木恭二さんは疑いを持った。二十年も前から宇土半島の馬門の石ではなかろうかと考えていた。その可能性はあるよと先輩たちからも言われた。しかし確証はなかった。
もしこれが熊本県宇土馬門から採取された、九万年前の阿蘇噴火に因って出来たピンク石であるとするならば、それは畿内の考古学者から激しい反論を受けるのは必定であった。だから自分が長い間、一人で研究を進めていた。
しかし考古学研究家や航海の研究者たちが、次第にその論に興味を持ち始めた。
そして協力を申し出た。
馬門の石がどうして高槻の古墳まで運ばれたか、どのような方法で、だれが何のために運んだのか。実際に証明する必要があった。
考古学者や古代船の研究者、水産や航海関係の人たちも次第にこの実験航海に協力を申し出た。

福岡県前原で九州古墳時代研究会があったとき、高木さんはその話を、北九州埋蔵文化財調査室の宇野慎敏さんに話した。
宇野さんは、私もその研究に加えてもらえないか、考古学者の夢、これを私たちの夢にしようと誓い合った。

高木さんが、どんなことがあってもこの古代船の航海を、実現しようと最終的に決意したのは、宇土市で長年漁師を営み、香川県から瀬戸内海、玄界灘を通って宇土まで漁船で行き来した事がある杉本保さん(77才)との出会いだった。二人は酒を飲みながら何度も話した。

「高木、そる(石棺を運ぶこと)ば、ほんなこて(本当に)するなら、おる(自分)が船に乗って行ってやるばい」「そら、絶対できるばい」そう言った。

この一言が高木さんをこの実験航海に取り組ませた。
そんな多くの人々の思いを乗せて、船は松浦半島から玄界灘、響灘、関門海峡と瀬戸の航路、1006キロの難航路を進んでいく。

継体大王というのは、古代最大の反乱、九州「磐井の乱」の鎮圧者である。
中国、朝鮮半島、そして鉄の道が関係してくる。多くの人が注目するのは当然だった。
この実験航海の記録が、今回本になった。下記のところから出版されている。
またこの実験の取り組は最初から記録され、それが読売新聞にアーカイブとして保存されている。
興味のある人はご覧になるといい。


大王のひつぎ海をゆく
 <謎に挑んだ古代船>
海鳥社
           ¥2000
読売新聞西部本社
大王のひつぎ実験航海実行委員会


読売新聞のアーカイブス
「大王のひつぎ」実験航海
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/

Sunday, July 23, 2006













口之津を出た。東シナ海に入った。

「地形によって潮は複雑に変化する。古代の船も地域ごとに、潮の流れに詳しい人に先導されたのでは。」
大きなうねりが襲ってきた。船は右に左に揺れていく。
「潮の力というものは恐ろしいものです。海はやはり、いつも危険がいっぱいです。」
平行して走っていた母船「平成2号」の船長石田さん(70歳)は関門海技協会の教官であり、航海暦が50年というベテランで、ずっと捕鯨船の船長も務めていた。水産大学校生の大先輩でもある。

この二日間は口之津海上技術学校の学生たちも櫂を漕いだ。
すっかり疲れた彼らの様子を見ると、手のひらの皮は破れ、肉刺はつぶれていた。

男たちがそれでも海に挑んでいく。
こうして海というものを知り、航海というものを学んでいく。
青年たちが自ら、自分たちの未来を目指して。
海岸を辿りながら、地形を見ながら、ずっと航海を続けていく。
潮や風の影響を検証しながら学んでいく。海図もコンパスもない古代に、先人たちはどのようにして海を渡っていったのか。

<この稿続く>

Saturday, July 22, 2006












大王のひつぎ海をゆく

今朝早くから、ジー、ジーとセミが鳴き始めました。
もう夏はすぐです。

そういえば、思い出すと去年も非常に暑い夏でした
7月24日空は限りなく晴れていました。
宇土マリーナのスロープにたくさんの人が集まっていました。小学生、中学生、町の人、考古学と歴史学者、そしてたくさんの海の男たち。
それらの人々が古代船「海王」と二隻の台船「火の国」「有明」を注目していました。
「がんばれ」「ご無事で」太鼓が鳴り花火が上がりました。
阿蘇のピンク石で造られた石棺を大阪まで運ぶのです。
重さが8トンにもなる巨大な石棺を曳いて、古代船で、人間の力だけで海を乗り切っていくのです。
漕ぎ手は水産大学カッター部員の学生たちです。
時間が迫ってきます。平静を装いながら、慎重に航海出航命令が発せられました。ロープが解かれ、強くオールが海水をとらえた。

「海王」船団の第一歩が始まったのです。
「ソーレ」「ソーレ」大勢の掛け声で海に滑りだしました。
やっとその日が来たのです。第一歩が始まったのです。
十八本の櫂を握る学生たちと、船の船長役の艇指揮、操舵担当の艇長総勢二十人で繰り出すのです。

電子機械と動力推進で世界中どこにでもいける現代の船乗りとは全く違ったやり方で、古代の人々がどの様にしてこの大航海を成し遂げたか、自然というものを巧みに読み取り、それをうまく使って海に乗り出す古代の人々は、どのような知識があったのか、どのような力があったのか。

航海では本体を積んだ大王の棺「火の国」と、その蓋を積んだ「有明」が進んでいきます。
普段は1トンのカッターを漕いていた男たちが、4トンの「海王」で8・3トンの「火の国」と4・4トンの「有明」を曳いていくのです。

「ソーレ」「ソーレ」掛け声をかけながら、船団は島原半島の先端にある口之津に向かって進んでいきました。

湯島北東を過ぎた頃、口之津海上技術学校端艇部の口洋丸が合流してきました。海の男、女たち、みんなに見送られて進んでいくのです。

若者の夢と希望を載せて古代船実験航海は進んでいきます。

<この稿続く>