Monday, December 11, 2006
















今年は新しい友にも巡り合えた。
が、心に残る幾人かは倒れた。

水が流れるように、風が囁きかけるように、どんな時にも心は続く。
人間が人間である限り、決して不正義が栄える道理はない。
道理のないものは、若者が除いて進む。
その水に、その風に聞いてみょう。



















今年いっぱい戦いぬいたから、もう少しだけは、お休みなさいというのだろうか。
長い冬を耐え抜いて、やがて来る春に備えて、力を蓄えろと呼びかけるのか。
只ならぬ世の姿に、イノシシを狩る鈴の音が響いている。
とうとう冬が来た。



























                    















紅葉を探して紫川を上ったが、それはなくくっきりした冬があった。
花とソラマメ

Wednesday, August 16, 2006












夏の海

響灘にコンテナ・ターミナルが出来た。それを始め見た。
恐ろしく広いところに何もない。
釜山、大連、上海に比べられるほどの大流通網を作ると、声だけは大きかった。 が肝心の外国船が来ない。荷物が無い。












こりゃ借金も、よほど大きかろう。












目の前には風力発電の風車が回っていた。
退任間際の市長は、また大変な物を作ったんだな。



「釣り馬鹿日記」じゃない。
バカバカしくて釣でも見よう。



「何が釣れますか」
「鯖ばかりよ」
「小さくてどうやって食うかな」
「糠炊きか」

響灘は面白い。

Friday, July 28, 2006































継体大王陵のピンク石と「磐井の乱」

大阪府高槻市所在の今城塚古墳(継体大王の墓とされる)、奈良県橿原市所在の植山古墳(推古女帝と竹田皇子とされる)からピンクの石棺破片が出てきた。
それまではこの石の出たところは、大阪と奈良の境にある二上山だといわれていた。折口信夫の「死者の書」の舞台となる山である。
このデータに宇土市教育委員会の高木恭二さんは疑いを持った。二十年も前から宇土半島の馬門の石ではなかろうかと考えていた。その可能性はあるよと先輩たちからも言われた。しかし確証はなかった。
もしこれが熊本県宇土馬門から採取された、九万年前の阿蘇噴火に因って出来たピンク石であるとするならば、それは畿内の考古学者から激しい反論を受けるのは必定であった。だから自分が長い間、一人で研究を進めていた。
しかし考古学研究家や航海の研究者たちが、次第にその論に興味を持ち始めた。
そして協力を申し出た。
馬門の石がどうして高槻の古墳まで運ばれたか、どのような方法で、だれが何のために運んだのか。実際に証明する必要があった。
考古学者や古代船の研究者、水産や航海関係の人たちも次第にこの実験航海に協力を申し出た。

福岡県前原で九州古墳時代研究会があったとき、高木さんはその話を、北九州埋蔵文化財調査室の宇野慎敏さんに話した。
宇野さんは、私もその研究に加えてもらえないか、考古学者の夢、これを私たちの夢にしようと誓い合った。

高木さんが、どんなことがあってもこの古代船の航海を、実現しようと最終的に決意したのは、宇土市で長年漁師を営み、香川県から瀬戸内海、玄界灘を通って宇土まで漁船で行き来した事がある杉本保さん(77才)との出会いだった。二人は酒を飲みながら何度も話した。

「高木、そる(石棺を運ぶこと)ば、ほんなこて(本当に)するなら、おる(自分)が船に乗って行ってやるばい」「そら、絶対できるばい」そう言った。

この一言が高木さんをこの実験航海に取り組ませた。
そんな多くの人々の思いを乗せて、船は松浦半島から玄界灘、響灘、関門海峡と瀬戸の航路、1006キロの難航路を進んでいく。

継体大王というのは、古代最大の反乱、九州「磐井の乱」の鎮圧者である。
中国、朝鮮半島、そして鉄の道が関係してくる。多くの人が注目するのは当然だった。
この実験航海の記録が、今回本になった。下記のところから出版されている。
またこの実験の取り組は最初から記録され、それが読売新聞にアーカイブとして保存されている。
興味のある人はご覧になるといい。


大王のひつぎ海をゆく
 <謎に挑んだ古代船>
海鳥社
           ¥2000
読売新聞西部本社
大王のひつぎ実験航海実行委員会


読売新聞のアーカイブス
「大王のひつぎ」実験航海
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/

Sunday, July 23, 2006











口之津を出た。東シナ海に入った。

「地形によって潮は複雑に変化する。古代の船も地域ごとに、潮の流れに詳しい人に先導されたのでは。」
大きなうねりが襲ってきた。船は右に左に揺れていく。
「潮の力というものは恐ろしいものです。海はやはり、いつも危険がいっぱいです。」
平行して走っていた母船「平成2号」の船長石田さん(70歳)は関門海技協会の教官であり、航海暦が50年というベテランで、ずっと捕鯨船の船長も務めていた。水産大学校生の大先輩でもある。

この二日間は口之津海上技術学校の学生たちも櫂を漕いだ。
すっかり疲れた彼らの様子を見ると、手のひらの皮は破れ、肉刺はつぶれていた。

男たちがそれでも海に挑んでいく。
こうして海というものを知り、航海というものを学んでいく。
青年たちが自ら、自分たちの未来を目指して。
海岸を辿りながら、地形を見ながら、ずっと航海を続けていく。
潮や風の影響を検証しながら学んでいく。海図もコンパスもない古代に、先人たちはどのようにして海を渡っていったのか。

<この稿続く>

Saturday, July 22, 2006











大王のひつぎ海をゆく

今朝早くから、ジー、ジーとセミが鳴き始めました。
もう夏はすぐです。

そういえば、思い出すと去年も非常に暑い夏でした
7月24日空は限りなく晴れていました。
宇土マリーナのスロープにたくさんの人が集まっていました。小学生、中学生、町の人、考古学と歴史学者、そしてたくさんの海の男たち。
それらの人々が古代船「海王」と二隻の台船「火の国」「有明」を注目していました。
「がんばれ」「ご無事で」太鼓が鳴り花火が上がりました。
阿蘇のピンク石で造られた石棺を大阪まで運ぶのです。
重さが8トンにもなる巨大な石棺を曳いて、古代船で、人間の力だけで海を乗り切っていくのです。
漕ぎ手は水産大学カッター部員の学生たちです。
時間が迫ってきます。平静を装いながら、慎重に航海出航命令が発せられました。ロープが解かれ、強くオールが海水をとらえた。

「海王」船団の第一歩が始まったのです。
「ソーレ」「ソーレ」大勢の掛け声で海に滑りだしました。
やっとその日が来たのです。第一歩が始まったのです。
十八本の櫂を握る学生たちと、船の船長役の艇指揮、操舵担当の艇長総勢二十人で繰り出すのです。

電子機械と動力推進で世界中どこにでもいける現代の船乗りとは全く違ったやり方で、古代の人々がどの様にしてこの大航海を成し遂げたか、自然というものを巧みに読み取り、それをうまく使って海に乗り出す古代の人々は、どのような知識があったのか、どのような力があったのか。

航海では本体を積んだ大王の棺「火の国」と、その蓋を積んだ「有明」が進んでいきます。
普段は1トンのカッターを漕いていた男たちが、4トンの「海王」で8・3トンの「火の国」と4・4トンの「有明」を曳いていくのです。

「ソーレ」「ソーレ」掛け声をかけながら、船団は島原半島の先端にある口之津に向かって進んでいきました。

湯島北東を過ぎた頃、口之津海上技術学校端艇部の口洋丸が合流してきました。海の男、女たち、みんなに見送られて進んでいくのです。

若者の夢と希望を載せて古代船実験航海は進んでいきます。

<この稿続く>



Friday, July 07, 2006















今日は 7・7です。

1937年(昭和12年)7月7日の夜10時40分だった。北平の西方10キロあまりの盧溝橋付近で、夜間演習中だった日本兵1個中隊に対して、何者かの発砲事件が起こった。直ちに豊台から現場に急行した第3大隊と現地中国軍との間で小競り合いが行われた。
中国軍からの発砲であるというものあり、日本軍からの発砲であるというものもあり、特務機関が発砲したのだという説もあった。
しかしただちに現地では一応の停戦が成立した。
ところがこれを契機にして廊坊・広安門事件が起き戦火が華北全体に燃え広がった。
そして7月28日兵力を増強した日本軍は、北平・天津地方に総攻撃を開始したのである
永定川にかかる盧溝橋は別名マルコポーロ・ブリッジと呼ばれ、きれいな大理石造りの橋であった。
私がここは訪れたのは1972年1月のとても寒い日だった。ここには日本人は立ち入ることができず、私はごく珍しい例だったと思う。
本当に美しい石橋を見て、私は深い感銘を受けた。
ここからあの8年にわたる全面的な日中戦争が開始されたのである。

私たちの若い頃は、夏といえばまずこの7・7記念集会から始まった。
そして今では多くの人から盧溝橋事件は忘れ去られ、今日の新聞は、朝刊も夕刊も一言も触れず、何か言おうものならチンケな事件であったとすら言う者もある。
本当に今の日本は、享楽狂乱な時代になった。

写真
右が盧溝橋付近、左は京漢線の鉄道、上部の四角な城壁が宛平県城。

(この稿の続は下記のブログへ)

http://gongitune.exblog.jp/i0

Monday, July 03, 2006












この大きいトマト位の時、薄く切ってウスターソースをかけて食べた。
そもそもトンカツソースと言う物を知らなかった。
その頃はトマトは匂いがとても強く、誰もが食べると言う物ではなかった。
匂いがなくなって、水に延ばしたような平均的な味になってからが、市場に出回った。よく売れた。
人間も個性の強い奴は嫌われる。大学生も一様に幼稚園児のようになる。おかしな時代だ。
それだから、ノッペリ顔した日銀の好古爺が一番悪い事をしたりする。
悪人の顔は完全に変わった。
私も嫌われる。思い当たる所もあるが。