継体大王陵のピンク石と「磐井の乱」
大阪府高槻市所在の今城塚古墳(継体大王の墓とされる)、奈良県橿原市所在の植山古墳(推古女帝と竹田皇子とされる)からピンクの石棺破片が出てきた。
それまではこの石の出たところは、大阪と奈良の境にある二上山だといわれていた。折口信夫の「死者の書」の舞台となる山である。
このデータに宇土市教育委員会の高木恭二さんは疑いを持った。二十年も前から宇土半島の馬門の石ではなかろうかと考えていた。その可能性はあるよと先輩たちからも言われた。しかし確証はなかった。
もしこれが熊本県宇土馬門から採取された、九万年前の阿蘇噴火に因って出来たピンク石であるとするならば、それは畿内の考古学者から激しい反論を受けるのは必定であった。だから自分が長い間、一人で研究を進めていた。
しかし考古学研究家や航海の研究者たちが、次第にその論に興味を持ち始めた。
そして協力を申し出た。
馬門の石がどうして高槻の古墳まで運ばれたか、どのような方法で、だれが何のために運んだのか。実際に証明する必要があった。
考古学者や古代船の研究者、水産や航海関係の人たちも次第にこの実験航海に協力を申し出た。
福岡県前原で九州古墳時代研究会があったとき、高木さんはその話を、北九州埋蔵文化財調査室の宇野慎敏さんに話した。
宇野さんは、私もその研究に加えてもらえないか、考古学者の夢、これを私たちの夢にしようと誓い合った。
高木さんが、どんなことがあってもこの古代船の航海を、実現しようと最終的に決意したのは、宇土市で長年漁師を営み、香川県から瀬戸内海、玄界灘を通って宇土まで漁船で行き来した事がある杉本保さん(77才)との出会いだった。二人は酒を飲みながら何度も話した。
「高木、そる(石棺を運ぶこと)ば、ほんなこて(本当に)するなら、おる(自分)が船に乗って行ってやるばい」「そら、絶対できるばい」そう言った。
この一言が高木さんをこの実験航海に取り組ませた。
そんな多くの人々の思いを乗せて、船は松浦半島から玄界灘、響灘、関門海峡と瀬戸の航路、1006キロの難航路を進んでいく。
継体大王というのは、古代最大の反乱、九州「磐井の乱」の鎮圧者である。
中国、朝鮮半島、そして鉄の道が関係してくる。多くの人が注目するのは当然だった。
この実験航海の記録が、今回本になった。下記のところから出版されている。
またこの実験の取り組は最初から記録され、それが読売新聞にアーカイブとして保存されている。
興味のある人はご覧になるといい。
大王のひつぎ海をゆく
<謎に挑んだ古代船>
海鳥社
¥2000
読売新聞西部本社
大王のひつぎ実験航海実行委員会
読売新聞のアーカイブス
「大王のひつぎ」実験航海
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/